物語 高校教師鳥井裕介 第2話

大学受験

 その教頭はすでに56歳になっており、その年が校長に昇任するラストチャンスだったらしいが、結局、校長には昇任できず、定時制に異動させられた。 金崎教頭は今年、教頭に昇任したばかりでまだ40歳代後半と聞いている。朝早くから 出勤し、生徒の欠席連絡なども自ら電話対応を行っている。前の教頭はいくら電話が鳴っ ていても、自分で取ろうとはしなかった。そんな仕事は教頭がするものではない、と考えているらしかった。 今度の金崎教頭は非常に真摯に仕事に向き合っているように鳥井には感じられた。部下 に対しても必ず敬語を使う。県教委への提出文書等は細かく添削し、自分で修正できる分 は自分で修正して校長に回すし、起案者に差し戻すときは、どこをどう直せばいいのか、 付箋を貼って丁寧に指示を与えた。 職員の健康面への配慮もきめ細やかで、体調の悪そうな職員に対しては年休を取得して 休養するよう勧め、1ヶ月の時間外勤務が多い職員には丁寧に体調を尋ね、産業医との面 接を勧めたりした。しかし、教員というのは、基本的に生徒ファーストで自らの健康は常に後回しにすることこそが熱心な教師であるかのような錯覚を有しているので、教頭の好意に感謝はするものの、少し鬱陶しく感じている職員も少なからず見られた。教頭の物言いや配慮の仕方によって、これほど職員室の雰囲気が変わるものか、と鳥井は今年になって感じていた。 

 鳥井は自分の席に向かう途中、職員室の一番奥の来客用面談スペースとして仕切りで区 切られた中にあるソファに、見知らぬ男が座って新聞を眺めているのを見た。グレーのジャケットに白いシャツ、ノーネクタイである。ややウェーブのかかった髪は無造作にかき上げられ、かすかに無精ひげが顔を覆っている。座っているのでよくわからないが、身長が175センチの自分より幾分背が高いのではないかと思った。切れ長の目に通った鼻筋、ややあごが張っているが口元はやわらかな笑みをたたえているように見える。背筋が 伸びており、座っている姿がさまになっている。 年齢は40代前半であろうか。どこかで見た顔だとは思ったが、思い出せなかった。きちんとした身なりをすれば、一流会社のやり手のエリート社員にみえるだろう。 鳥井は席に着くと、先に出勤していた後ろの席の宍戸に「あの人誰ですか?」と聞いてみた。宍戸は猪首を回して鳥井を見ると、短く借り上げた髪をボリボリ掻きながら、「知らんな。おれが来たときには、もうあそこに座っていたから。教頭にこっそり聞いてみた が、『今日の朝礼で紹介するからそれまで待っててくくださいね。』とお上品に答えただけだったよ。」と言った。近くで宍戸を見ると柔道で潰れた耳が餃子のようだ、といつも鳥井はおかしくなる。 鳥井は、生徒の保護者だろう、と見当をつけた。高校生の子どもがいてもおかしくない年齢だ。最近の保護者は、教師の勤務時間帯などはお構いなしにやってきて、学校に対してクレームをつける者が少なくない。とはいえ、その男はいらだった様子ではなかった し、教頭も緊張している風でもなかったから、クレーマーではないのかもしれない。新任の教師と言うことも考えられたが、誰かが異動や休職するといった噂も聞いていない。鳥井はもう一度教頭席を見た。 教頭はちらりと腕時計を見ると数枚のプリントをプリンタから出力し、席を立ってそれを手に取るとその男の近くまで歩いて行った。「神崎さん、では校長室に行きましょうか。」 声をかけられて、男は立ち上がってゆっくり新聞をラックに戻すと職員室の出口に向かった。途中、ちらりと鳥井を見て片目をつぶって見せた。中年男からのウインクはありがたくなかったが、いやな感じのウインクではなかった。 

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