夜の職員室の窓の外では、中庭に植えられた欅がさわさわと枝を鳴らしている。大気には濃厚に雨の気配が漂っていた。校舎のすぐ背後に山が迫っている。
この高校では、町中より早く雨が降り出すことが多い。生徒達はとっくに帰宅し、職員室に残っているのは柴田と神崎の二人だけになっていた。すでに時計は二十一時を回っていた。神崎は机に向かって書類を書いている。柴田は隣の机に両足を上げて、椅子にふんぞり返っていた。
「実はちょっと悩んでるんだ。」
柴田は喉を鳴らして缶コーヒーを飲み込んだ後、神崎に向かって言った。柴田の机の上はいつも通り乱雑にものが散らかっている。文房具の類はもとより、まだ採点されていない小テスト、生徒の家庭環境調査書、湯飲み茶碗、缶コー ヒー、そしてほこりをかぶったパソコン。机の両端には数学の教科書や問題集、 分厚い受験情報誌などが山と積まれている。普段どこで仕事をしているのか分からないくらいの机だ。神崎は柴田の方に顔を向けることなく、すっきり整理された机に向かったまま不機嫌そうな声で答えた。 「お前にも悩みがあったか。喜ばしいことだ。パチンコで負けがこんでいるんだな。やめとけと言ったはずだ。」
神崎は左手でこめかみを押さえながら、横顔のまま答えた。柴田は苦い顔をして、無精ひげの生えた顔をなでた。「何を言うか。パチンコなどこのところずっとやっておらんよ。仕事中毒になるほど毎日世の中のため、生徒のために働いて、休みになれば家族サービスだ。自分のための時間などこれっぽっちもないわ。俺こそが世界平和を守っているのだぞ。だからこそおれの悩みは深い。悩んで悩んで悩み抜いているのだ。凡人には計り知れないほど俺の悩みは深い。」
柴田は神崎に悩みを聞いてもらいたくて、他の教師が帰ってしまうのを待っていたのだった。神崎は他の教師が帰った後に仕事を片付けることにしていることを知ってのことである。
「ところでお前はさっきから何をせっせと書いているのだ。よくそんなに仕事ばかりできるな。」
柴田は、神崎の端正な横顔をじろりと見ながら頭の後に手を組んで言った。
「推薦書を書いているのだ。お前の悩みなどを聞いているとますます頭が痛くなる。どうせ、パソコンの使い方が分からないか、水虫がいまだに治らないが どうしたらいいだろう、などというくだらない悩みだろうが。答えてやるほどおれは暇ではない。」
神崎は眉間にしわを寄せて言った。神崎は、国公立大学に提出する推薦書を書いていた。推薦入試を受ける生徒のものでる。締め切りはずいぶん先のは ずだが、すでに神崎はほとんど書き終えてしまっているらしい。
柴田も担当するクラスの生徒の四名分の推薦書と調査書を書かなければならないのだが、気が乗らないことを理由にほとんど手を付けていない。「追いつめられるほど俺は力を発揮するのだ」と日頃はうそぶいているが、面倒なことは先延ばしするのが柴田の常套手段である。結局、締め切り前には地獄を見ることになる。しかし、柴田にはそれを楽しみにしているようなところもあった。
二人の勤務する武岡高校は九州のS県の県立高校である。地元では進学校で知られている。その三年担任ともなるとひどく忙しい。近くに予備校などはないから、おのずと高校が予備校の機能を受け持つことになる。正規の授業の前の朝補習、六限目が終わってからニ時間の補習。毎週土曜日曜には模擬試験の監督までしなければならず、休む暇もない。ことに十一月ともなると大学の出願書類の作成に追われる。この時期には体力こそが教師のもっとも重要な資質になってくる。
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